Masuk※
イアンは部屋に戻るつもりだったが、帝国の悪政を目の前で見たからか、腹が立っていた。
(ああいう奴らに兄上の爪の垢を煎じて飲ませたい) ――と苛つきながら足を進める。 表情は能面顔のお陰で苛ついているように見えないが内面はそうではなかった。 イアンは、頭を冷やそうと外に出て庭を散策することにした。 ゆっくりと歩き庭の花でも眺めようと思ったものの、広間から流れる音楽がどこまでもついて来て落ち着かない。 音楽から逃げるようにひたすら進んで行くと、今までとは違う雰囲気の庭に差し掛かった。 樹木が生い茂り、周囲は薄暗い。庭というより──森の中だ。しかし、まだ城内で、城壁の外へ出ていないはずだ。 たとえ、ネロペイン帝国との戦争の話をすると逃げ腰になるサーレン将軍への苛立ちと、そんな彼にどう逆立ちしてもカリスマ性と実力で勝てない自分の不甲斐なさに気を取られていたとしても、流石に城の外へ出たら気付くはずである。(ここだけ、整備されていないのか?)
派手に着飾る帝国が、この庭だけを忘れることがあるだろうか。
ふと、花の香りがイアンの鼻先を掠った。自分の膝丈まで生えた雑草の中に埋もれて、狭い範囲ながらも白いジャスミンの花が広がっている。この香りはあのジャスミンから漂っているのだろう。(不快感はない、いい香りだ)
先程まで通った庭に咲いていた薔薇の香りよりも、ジャスミンの甘い香りの方がイアンは好きだと感じた。それに、この香りは皇女達の香水の匂いを忘れさせてくれる。
あの香りを近くで嗅ぎたいと思ったイアンは、あの場所まで足を進めることにした。 雑草を掻き分けて、ジャスミンの目の前に辿り着くと、何かに躓いて危うく転びそうになった。 もう少しでジャスミンの花の上に倒れるところだった、と安堵する。 大きな石に当たったか、と足元のジャスミンをそっと掻き分けると──花の中で女の子が仰向けで倒れていて、イアンはギョッとした。 銀髪で髪色と同じ色の睫毛をした女の子。思わずその場にしゃがみ込んで、鼻の下に人差し指を当てると息が当たる。(人形じゃなかった……)
よく目を凝らせば胸の上で結ばれた手が上下している。
(何故ここで寝ているんだ?)
「起こした方が良いか……?」
悩みながら顔をジッと見つめる。
(……動かない)
規則的に胸は上下しているが、若干肌寒さを覚える夜だ。こんな夜に外で寝ていては風邪を引いてしまう。
イアンは少女を起こす為に、少女の肩に触れようと手を伸ばした──パチッと眼が開いて、不意を突かれてしまいイアンは尻もちをついた。 ゆっくりと身を起こす女の子の年齢はいくつくらいだろうか。 肩まで伸びた銀髪は夜だというのに煌めき、パッチリと開いた琥珀色の瞳を縁取る長い睫毛。 そばかす一つも見当たらない透き通った肌に桃色の唇。 爪は綺麗に整えられている。 痩せていることは気になるが、イアンでも分かるほど顔立ちが整っている女の子だ。シルクの純白のドレスを着ているから、広間に居る貴族の娘だろうか。 少女と目が合った時──イアンは美しさに息を飲んだ。 じーっと穴が開いてしまうほど真っ直ぐに見つめられ、己の汚さまで見透かされそうで視線から逃げるようにイアンは俯いた。 心臓が激しく脈打ち、息が苦しくなるほどの動悸だ。心臓が早鐘のように胸を打ち、その痛みに耐えるように左胸に手を置く。掌に鼓動が伝わり、拳を作る。掌の中にあるメダル型勲章の冷たさのお陰でイアンは冷静さを保つことができた。「こんにちは! どこか、いたいの?」
アンはオリヴィアがキツくないよう膝を付いて彼女と目線を合わせてあげる。「幼児化した私との離婚をイアンが承諾すると思う?」「それは……」アンは押し黙った。思う事があるのだろう。「まずは大人の姿に戻ってからイアンと話をした方が絶対に良いわ。子供の私がイアンと話したって言い包められるだけよ。そう思わない?」「そうですね……確実に離婚する為なら元に戻ってから話を進めた方が良いですね」『離婚』という単語をアンは何度も口にする。敢えてオリヴィアは否定しなかった。「だからと言って、魔女に会いに行くのはどうかと……たしか首都からかなり離れた遠い森に居た筈です」「魔女の方が良いわ。イアンはまさか魔女に会いに行くなんて思わないでしょ? 叔母様から紹介された魔術師だと私の居場所が割り出されるじゃない」「そんなに何日も家を留守にされるつもりですか?」「ん?」と片眉を上げたアンにオリヴィアは飛び付いた。 突然、オリヴィアから抱き締められてアンは尻もちをついてしまう。「それと、もう一つ理由があるの! 折角可愛い服を着たんだもの。お出かけをしたいわ」「私は可愛いってみんなに証明したいの!」と叫んでアンを抱き締める腕に力を込める。するとアンの耳が赤くなるのがオリヴィアの視界の端に映った。「そうですよね……! 折角可愛い服を沢山買ったんです。昔はお出かけでさえできなかったんです! 若返った今しなきゃいつするって言うんですかっ!」 ギュッと力強く抱き締められて、罪悪感が多少湧く。しかし、アンから邸を連れ出して貰えないと自分一人では無理なのだ。公爵家の門番に門を開けてもらえない筈だ。アンが居れば、私と一緒に上手く出て行けるはず。「善は急げです。魔女の所までは距離がありますのでケースに入るだけ荷物を入れます」「も、門番には私の姿を見せたくないの。イアンには探して貰いたくないから、外に出たと知られたくない」「ご安心を。理由をつけて馬車を拝借します。まず
※「──オリヴィア様、ただいま帰りました!」 元気な声と共にアンが部屋に入ってくる。そして、部屋の中の惨状を見て目を丸くした。床に大量の本が散らばっていて、足の踏み場がない。 散らばった本の中、床に座り込んだオリヴィアに不安そうに近付くと、突然立ち上がってクルリと振り向いた彼女の瞳は決意に満ちていてアンは面食らってしまう。「決めたわ」「離婚ですか!?」 嬉しそうなアンをジトリと睨んでからオリヴィアは咳払いをした。「幼児化した呪いを解いてもらう! まずはお家を出て行きましょう」「出て行くのはやめましょうよ」「えいえいおー!」と拳を振り上げていたら、アンから反対の声が上がってオリヴィアはよろけた。イアンと離婚して欲しいと願っているアンが、家を出て行く事を反対するとは思ってもいなくて目を剥いて驚いてしまう。「邸と使用人達は慰謝料として残してもらいましょうよ。皆さん、素晴らしい人達ですし。オリヴィア様はここで平和に過ごすのが一番です。お嬢様が出て行く必要ありません」「アンはターニャが苦手じゃなかったの?」 むしろ、嫌っていると思っていた。あんなに毎日叱られているのだ……と言ってもアンが言う通りにしないからである。「メイド長は口うるさい方ですが、正当な理由なく叱る方ではありません。それに必ず後でちゃんとフォローして下さるんです。不慣れな私にしっかりメイドの仕事を教えて下さったし、元騎士だからと言って贔屓もされませんでした。それから他の使用人達は気さくで良い人たちです。初見で怖がられる私ですが、みんな外見ではなく中身を見てくれます。みんなが常にオリヴィア様の為に動いてくれます。そんな彼らから離れるのは得策だと思えません」「アンはグゥイン公爵家の邸は居心地良い?」「あの男は嫌いですが、ここの人達は嫌いじゃありませんので」 きっぱりと言い切ったアンを見て、オリヴィアは口元に笑みを浮かべた。「アンも、ここを自分の家だと思ってくれていたのね……」 じんと熱
『笑うと笑窪が出来るのよ。オリヴィアと同じ場所にね』『いつも花の香がするヒトだったの』 父を語る母の表情は、恋する乙女そのものだった。私がイアンを想う表情と同じで。 『──どうして、おとうさまはあいにこないの? さびしくないの?』 寂しそうに微笑んだ表情は見逃してしまうほど一瞬のものだった。『貴女を生んで良かった。オリヴィアを通して愛する人に会えるもの……だから寂しくないわ』 温かい目で慈しみに溢れ、私の額にキスを落とす。唇は熱く、愛されている事が唇から全身に伝わる。『愛してるわ』 その言葉は、私を通して正体不明の父親に伝えていたのね──……。「必死になって隠した母親の秘密を貴女はみんなにバレて良いというの?」(そんなわけないじゃない)「親不孝ね」「バレていい、なんて言ってないわ」 ──私の事はバレたって良い。でも、お母様は違う。 身体を張って私を守り、秘密を守ったのに──お母様の想いを踏み躙るわけにはいかない。(もし、叔母様が知ったら) 叔母様に会うとお母様との幼い頃の思い出を語ってくれる。その碧い瞳を見ているとお母様と同じ顔をしているから、余計お母様を思い出してしまって思わず涙ぐむ、それを見て「困った子ね」と微笑んで涙を拭ってくれるの。それから私の頭を撫でてくれる。最後に私の額にキスをしてくれる──お母様からされたように。(叔父様にも知られる訳にはいかない) 私がイアンの元でちゃんと過ごせているか心配して頻繁に会いに来てくれるしお茶会にも呼んでくれて。会う度にお母様が幼い頃の話をしてくれる。叔母様とは違う視点で語るものだから、同じ話なのに結末が違っていて面白い。別れの時に、額にキスをしてくれる──お母様からされたように。 (そして……顔も名前も知らないお父様にも知られてはいけない──この三人に秘密を知られたくなかっただろうから) 「イアンとア
「……白髪。地獄に堕ちるのは貴女よ」 懐かしいあだ名で呼ばれる。 クツクツとした笑い声が徐々に大きくなっていく。腹を抱えて笑うミシェルにオリヴィアは眉を顰めた。「あー、おかしい」 笑い過ぎて出た涙を指先で掬ってから、訝し気にこちらを見上げるオリヴィアにミシェルは意地悪く笑みを深めた。「あんただけの記録とは言っていないわ。あんたの母親の記録もあるの」「なんですって……?」 無邪気な笑いを浮かべるミシェルとは逆にオリヴィアの表情は消えていった。「私のお母様は第四側室として嫁いだけど、その前からお父様とは顔見知りだったの。お母様は媚薬や薬品を皇宮へ流していたから。その時、この水晶玉をお父様に贈ったわ。お父様は悩んでいたわ。スェミス大国から嫁いできたあんたの母親が自分に靡かなかったから。国に帰りたい、と故郷のお姉様に一筆書こうとしていたくらいよ。プライドだけは高いお父様にとって許せる事ではないわよね。だから、あんたの母親と初夜の晩から毎晩のセックスを記録して脅したのよ。『逃げようとか離縁を考えたりすれば、お前の家族に見せる』 って、ね。それを恐れて従順になったらしいわ」「…………」「お母様もずっとこれであんたの母親を脅していたわ。誰にも見せたくなくて何でも言う事をきくって面白がってた」 言葉を発せずにいるオリヴィアを見てミシェルは歓喜した。オリヴィアが幼い頃から大嫌いだった。でも、彼女の絶望に満ちた表情を見ると加虐心が刺激されて心地良い。大嫌いで、でも苦痛に満ちた表情は大好きで……真逆な感情が混ざり合い、歪な感情となって身体中を駆け巡った。「あんたの母親の最期も残っているわ」 ミシェルは口角を釣り上げる。「ぶっさいくな死に顔が映ってるわ!」「──殺してやる!」 オリヴィアは咆哮した。 怒りに任せて声を荒げ暴言を吐いたのは人生で初めてだった
「これは記録魔法よ」「どうして、そんなものを……そこまで私の事が嫌いなの?」「大嫌いよ」「……私が何をしたの」 血は繋がっていない姉妹達はオリヴィアを苛める事を楽しんでいた。その中でミシェルからの体罰が一番酷かったように思う。髪を引っ張り、鋏で髪を切り、馬乗りになって頬を殴る。それを姉三人は愉快に笑った。オリヴィアは彼女達の機嫌を損なわないように息を潜めて過ごしていたのに、関係なく暇があればオリヴィアを呼び出して笑いものにして彼女の心を痛めつけた。姉達が他所へ嫁いで行ってミシェルだけ残ったが、暴力はエスカレートした。鞭で背中を痛めつけるようになった。『目が気に入らない』『髪が目障り』『服の色が気に入らない』 理由はなんでも良かったのだろう。オリヴィアをただ痛めつけられたら、何でも良かったのだ。頭を踏みつけられ、汚れた床を舐めて綺麗にしろと命令された事だってある。一度拒否すれば、鞭で散々痛めつけられた。可愛らしい顔に加虐に満ちた笑みを浮かべ、鞭を何度も何度も何度も振り下ろす。 オリヴィアはブルっと大きく身震いをした。 六歳になったオリヴィアの背中は真っ新で染み一つもないのに、思い出したせいで鞭で打たれた後のようにジンジンと疼いたように痛みだした。俯き震えているオリヴィアを見て、ミシェルはさも愉快そうだった。「あんたの存在そのものが嫌なの。私より先に生まれたことも気に入らない。どこの種馬の子供かも分からないのに皇女って呼ばれるのが気に入らない」(そんなに嫌いなら、放っておいたら良かったのに) そっちが勝手に絡んできたんじゃない――……。 お母様は盾になって私を守ってくれた。結果……殺されてしまったけど、お母様が亡くなって私を守る盾がなくなったなら捨て置いてくれたら良かったのに。(あぁ……でも、そうなっていたら私はイアンと再会できなかったのね)「でも、歳を取ったらあんたの瞳は嫌いじゃなくなったわ。むしろ今は好
「スェミス大国を滅ぼすの」「──はぁ?」 あまりにも突拍子過ぎて間抜けな声が出てしまう。裸でふんぞり返るミシェルが憐れに見えてきた。「お母様を殺した事は恨んではいないわ。でも私の心臓に剣を刺したグゥインを私は一生許さない」「でも、貴女は生きているわ」「身代わりを立てたの。首を刎ねられる寸前にね。でも刺されはしたから完治するまでだいぶ時間がかかったわ」 その身代わりが誰かは恐らく彼女の周りに居たとりまきの一人だろう。私が彼女に痛めつけられている姿をただ傍観していた人たちだから可哀想だという感情は湧かなかったが。「私がこの国を乗っ取る為にまず邪魔なのはグゥインよ。それ以外はどうにかなる」「その自信はどこから来るの? イアンだけがスェミスを防衛している訳じゃないのよ」「私には協力者がいるの」「──協力者?」(ミシェルに協力者──? 他にも生き残りが居るの?) 旧帝国の皇族と皇帝派もろとも処刑され生き残りはいないと聞いていたのに。(イアンに言わなきゃ) 服をアンから用意して貰ったら、すぐに出掛けよう。アンが説明すればこの姿でも問題ないだろうし。 そう考えあぐねていると、頭上からミシェルに話しかけられた。「まぁ良いわ。グゥインを殺せなかったけど、呪いが失敗した訳じゃないから。呪いが失敗すれば術者に返ってくる。でも私には返ってきていない。だから呪い自体は発動している筈なのよ。なのに、あの男は死んでいない……何かがおかしいわ。今後どう作用するかは私にも分からない。お姉様と顔を合わせた時に何か起きるかもしれないわね」 自分の考えが読まれて分かり易く表情を崩してしまう。その様子にミシェルはニタリと笑った。「赤髪を使って伝えてもらうのも無駄よ。余計な事はしない事ね。もし、計画が漏れるような事があれば、あんたの秘密をバラすから」 幽体姿のミシェルは水晶玉を取り出した。彼女がブツブツと呪文を唱えると、パァッと水晶玉が光に包まれる。それから玉の中が揺らぎ、人影の